由乃は既に疲労していた。
病弱で体力がないとはいえ、一応、剣道を始めたのだからもう少しは鍛えられていると思っていただけに、自分のひ弱さにがっかりする。
時代劇、歴史小説に限らず、戦争もの、潜入スパイもの、特殊部隊系など、その手の本や映画も好む由乃は、それらで得た知識を総動員して、どう動くべきかを考えていた。その結果、どうやら余計なことに頭が回り、必要以上に気を張って、自分が思う以上に疲れるペースは速かったようだと認識する。
トラップを気にしたり、人の気配を気にしたり、自分の動きや音に注意を払ったり、小説なんかでは簡単にやっているようなことも、素人の由乃にとっては困難だった。というかむしろ、単にそれっぽいことをやってみただけで、成果としてはゼロだったのではないかとも思う。
おかげで、いまだに『アドベンチャーフロンティア』を抜け出せていない。正規の道を通れば速いのだが、さすがに人目につくのでそんなことはせず、作り物のジャングルの中を歩いているせいだろう。
作りものとはいうものの、土や木は本物で、しばらく整備もされていなかったために荒れ放題、ジャングルよりも始末が悪いかもしれない。虫もいるし。
今のところ、他に誰とも遭遇していない。運が良いのか、たまたま由乃がいた付近には誰も配置されていなかったのか。
それでも銃撃で狙われたことには変わらない。姿は見てなくても、誰かがいるのだ。由乃はため息をつき、近くにそびえていた大きな木の根元に、身体を隠すようにしてしゃがみこんだ。
令はどこにいて何をしているだろう。放送では名前を呼ばれていなかったから、まだ無事でいることは間違いない。いや、無事でいるとは限らない。放送で呼ばれるのは、「死んだ」生徒だけだから、怪我をしていても、瀕死の重傷でも、生きていれば名前を呼ばれない。令の運動神経は由乃の知るところだが、優しすぎること、大事なところで抜けていることも知っている。
そして何より、由乃を探すために必死になっているであろうこと。無茶をしていないか、へまをしていないか、動かないでじっとしていると、たまらなく不安になってくる。
祐巳や志摩子といった、山百合会に入って得られた親友のことも、もちろん脳裏に浮かぶことはあるが、生まれてから今までを共に生きてきた、最愛の従姉のことに殆どの思いが集中する。
由乃を生かすためなら、きっと令はどんな無茶でもするだろう。自分の命を惜しむことだってないだろう。
でも、由乃はそんなことは望んでいない。
令がいなくなった世界なんて、いらない。
由乃はただもう一度、令に会いたかった。令の言葉を耳にして、令に触れて、令の温もりを感じたかった。
そして、「大好きだよ」と伝えたかった、ただそれだけを願っている。
死にたくはない、でも楽観はしていない。だからこそ、後悔しないために、絶対に令に会わなければならない。
そのためには、それまでは砂を噛んででも生き残る。
ともすれば弱気になりそうになる心を奮い立たせるため、由乃はそう自己暗示をかける。
「喉、乾いたな」
リュックからペットボトルを取り出し、口をつけると、さほど冷たくもない水がとても美味しく感じられ、体に染みわたっていくのが分かる。あまり飲みすぎないようにしてボトルをしまったところで、乾いた金属製の感触が手にあたる。
支給された武器、ジェリコ941。とりあえず手にしてはいたものの、実際に使えるかどうかはまだ分からない。
いざというときに使えないようでは問題があるが、ここで試し撃ちなどしたら音が響いて由乃の存在が知られてしまうだろうか。でも、銃の反動というのもあるらしいし、細腕を痛めでもしたら意味がない。
好奇心を抑え、銃を撃つのを諦めた。
そのままの体勢で、時が過ぎていく。
一度休むと、なかなか動きたくなくなる。じっと、息をひそめ、膝に顔を埋めていると。
「!?」
遠くで僅かに、音がした。風はなく、木の枝か何かを踏んだような音だったと思う。音がしたと思われる方向にじっと目をこらすと、木々の間にちらりと、リリアンの制服が見えた。
慌てて木の陰に体を隠し直し、もう一度、顔だけを出して覗き見てみる。遠いので、誰かは分からない。周囲に気を払ってはいるが、由乃のことには気が付いていないようだ。息を殺して様子を窺っていると、やがてその人影は、どこかに消えていった。
完全にいなくなったと確信してから、ようやく由乃は緊張を解いた。何も動いていないのに、じっとりと汗をかいている。
手術をしておいて本当に良かったと思う。
手術前なら、これだけで心臓が破裂していたかもしれないから。
☆
広大な園内の中で、最初に置かれていた場所は、地図でいうところの一番左上だった。ある意味、袋小路ともいえる場所だが、逆にこんなところまでは誰もやってこないだろうという思いもあった。
当分の間はじっとしていようと考えたのだが、そうもいかなくなったのは、このA-1エリアが禁止区域に指定されたから。仕方なく克美は、古代遺跡のような場所から早足で安全な場所へと退避していた。
エリアの区切りに明確なラインなど引かれているわけではないので、なるべく、本当に安全だと思える場所まで離れる必要があった。大丈夫だと思って、実はまだ禁止エリア内にいました、なんて間抜けなことにだけはなりたくない。
克美はまだ誰とも遭遇していないが、死者が出ていることから、その気になっている生徒が複数いることは分かる。克美自身、こんなことで死にたくなかった。卒業して、たまたま学園祭に足を向けただけで、なぜこんな目に遭わなければならないのか、理不尽さに歯噛みする。
生き残ることができるのは、最大でも二人。残りは全員、死ななければならない。見知った顔を殺せるのかどうか、実際に顔を合わせるまでに心を決めておかないと、いざというときに致命的になる。
克美は考える。
サバイバルは、社会に出ても同じだ。厳しい世の中を生き抜き、勝ち抜き、高い場所まで歩んでいけるのは一握りのほんのわずか。自分が生き残るためには、誰かが陰で犠牲になるしかない。
ならば、自分は犠牲になる立場ではなく、勝ち残る立場になりたい。
だから、戦うしかない。
戦うことなく、自らの手を汚すことなく、勝ち進んでいくことなどありはしない。だが自分に本当に出来るのか。生まれてこの方、勉強ばかりしてきた自分に人を殺すことなど出来るのか。しかも、支給されている武器は何とも心もとない。
克美は、左腕に装着している武器にそっと触れる。
左腕に肘から手の先まで、黒光りする装甲が覆っている。先端の方からは二本の太いゴムが伸び、肘と手首の中間あたりで一つにつながる。いわゆるスリングショットであるが、腕に装着することでアームカバーにもなる。セットの鉄球弾はポケットに何個が入れ、残りはリュックの中に入っている。
武器を確認した時に試し打ちを行い、思っていた以上の威力に驚きはしたものの、殺傷能力がものすごく高いというわけではない。もちろん、まともに当たればただでは済まないだろう。特に、頭部などに直撃したら。
だが、そのためには相当に近づかないと難しいだろう。素人が簡単に当てられるとも思えない。
考えながら歩いているうちに、いつしかジャングルのような場所に入っていた。ここまでくれば禁止エリアから外れたとは思うが、念のため、もっと離れようと足を動かし続ける。
一応、周囲に気を配ってはいるが、木や雑草が生い茂り、視界もよくないので気にしすぎても仕方ないと割り切ることにした。視界を遮るものが多いということは、相手にとっても分かりづらいし、狙撃をするのにも向いていないということだから。
結局、誰に出会うこともなくジャングルを抜けた。アスファルトの地面や、機械的なアトラクションが目に入り、今までとの落差に分かっていながらもちょっと驚く。
さて、これからどうしようかと物陰に隠れながら左右に目をはしらせていると、一人の女子生徒の後ろ姿が視界に入り、慌てて相手の死角に入るようにする。
顔だけを僅かに出して確認するが、見知った相手ではない。
思いがけず転がり込んできた機会に、克美の心臓は急速に激しく動き出す。
頭の中では、漫画などでよくあるように、天使の声と悪魔の声がせめぎ合っているような感じだ。
何を躊躇する必要がある、先ほど決意したばかりじゃないか。いや、やはり人としてやっていいことと悪いことがある。そんな綺麗ごとを言っている状況じゃないだろう、死んでもいいのか。まだ死ぬときまったわけじゃない、何か方策があるかもしれない。そんなのあるわけがない、あったら、こんな『ゲーム』が今まで続いているものか。でも、人を殺すなんて出来るのか。大丈夫、スリングショットなら当たったところで簡単に死んだりはしない。そうだよね、本物の弾丸を撃つ銃ってわけでもないし、体に当たるくらいなら痛くても命には別条はなさそうだし。それに、実際にどんなものなのか、きちんと試して確認しておかないと、後々に苦労することになるかもしれない。そうそう、その為にも今のうちに実際に動く、生きている相手を狙って撃っておいた方が良い。死ぬわけじゃないし、大丈夫だよね……
まるで自分自身に催眠術をかけられたように、自然と克美は左腕をあげ、鉄球弾を装着し、ゴムを引っ張った。
狙いをつける。どれくらい離れているのだろう。真っ直ぐに飛ぶのか、果たして命中するのか、自分でも分からないままに、克美は右手を離した。
【残り 25人】