なんなんだ、これは。
なんで、こんな状況になっているのか。由乃は自問自答してみたが、都合よく答えなど出てくるはずもなかった。
令ちゃんと仲直りも出来ず、もやもやとした気持ちを抱えたままの練習は身も入らず、ぎくしゃくとしたまま続けられて、祥子さまがお怒りになるのも、もっともだとは思う。
それこそ、生まれてからの長い付き合いだから分かる。令ちゃんは、祐麒くんに惹かれている。あの、祐麒くんと一緒に写っていた写真、祐麒くんを前にしたときの態度を見れば、明らかだった。そして、そんな令ちゃんに、良くない感情を抱いてしまっている自分がいる。それは、なぜなのか。
その理由も、分かってはいる。
「私達は、外したほうがよいかしら」
はっとして、顔を上げる。
祥子さまは、何かを知っているのだろうか。涼しげな瞳で、この場にいる人たちを見つめている。
気の弱い人なら萎縮してしまいそうな視線を受けながら、祐麒くんは落ち着いた声で答える。
「いえ、大丈夫です。居ていただいて構いません」
「そう」
本気だろうか。
こんな、祥子さまや志摩子さんとかのいる前で、祐麒くんはやろうというのか。知られても良いというのか。みんなの目の前で明らかにされて。由乃や令ちゃんを晒し者にしたいのだろうか。
祥子さま達は、壁際の方に下がった。つられるようにして、祐巳さん、志摩子さんも移動する。祐麒くんがああ言ったからといって、素直に残ることはないだろうに。
これでもう、逃げられなくなってしまった。
「由乃さん」
その声を聞いて、体がぴくりと震えた。それでも外した視線はそのままで、祐麒くんの方に向けることができない。
「ごめんなさい。君を、傷つけてしまって」
深々と、頭を下げる。
由乃は、横目で様子を見る。
「ずっと、謝りたかったんだけれど、君は俺を避けていたから、こんなに時間かかっちゃって……いや、避けられるようなことを言ったのは俺なんだけれど」
「…………」
由乃は何も言わずに、ただじっと耳を傾けていた。
祐麒くんは、由乃が口を開かないのを見ると、続けた。
「言い訳に聞こえるかもしれないけれど、聞いて欲しい。あれは誤解なんだ。由乃さんの写真を見られたとは思っていなくて、違う写真を見られたと思って、あんなことを言ってしまったんだ。確かに酷いことを言ってしまったと思っている。でもそれは、由乃さんの写真を持っていたことに対してではなくて、そっちの写真を持っていたことに対してだったんだ」
真剣な目をして、祐麒くんは話している。
由乃は、顔を上げて祐麒くんのことを正面から見つめた。
「私のじゃない写真って、誰の?」
「…………えっ」
「私に、誰の写真を見られたと思って、あんなことを言ったの?」
そこで、祐麒くんの動きが止まった。なぜか、目が宙を泳いでいる。
なんでだろう。一体、誰の写真を持っていたというのだろう。志摩子さんとか、乃梨子ちゃんか。でも、それを由乃に見られて困るというのは、どういうことか。
「それは、ええと……じ、実は、そう、柏木先輩の写真で」
「柏木さん?」
あの、銀杏王子さまか。その名前を聞いて、祥子さまの頬が少しひきつったような気がした。
「小林達にいつの間にかポケットに入れられていたんだ。で、それを見られて、変な誤解をされたんじゃないかと思って」
確かに、そんな写真を懐に入れていたと思われたとしたら、あのときの台詞も納得できるかもしれないけれど。
「じゃあ、その写真、見せて」
「えっ」
「本当かどうか、見せて」
そんなの、都合のいい嘘かもしれない。
そういった意味を視線に込めて、祐麒くんの顔を見つめて手を出した。
「いや、その……その写真はもう、処分しちゃったから。いつまでも、持っているわけにもいかないし」
それはそうかもしれないけれど、どうにも信じられない。証拠がなければ、なんとでも言えるのだから。
「信じられないのかもしれないけれど、信じてもらうしかない。だって、それが真実なんだから」
みんな、息を殺したように、二人のやり取りに聞き入っている。
「そうじゃなきゃ、こんな必死に君を捕まえて、誤解を解こうとしていない」
「……じゃあ、令ちゃんとのことは、どうなの?」
その言葉に令ちゃんが、はっとして顔をこちらに向けるのが分かった。
「令、さん?」
「とぼけないで。令ちゃんと二人で会っていたのでしょう、休日に。とても仲良さそうにしていた」
「え、ま、まさか見ていたの?!」
「二人で仲良くカフェでお茶していたのでしょう」
「あ、そ、そっちか……」
「そっちって……ふーん、まだ他にもあるんだ」
「い、いや、そうじゃなくて」
見ていて可哀想になるくらい、祐麒くんは慌てていた。令ちゃんと、いったい他に何があったのかは知らないけれど、今更そんなに隠さなくてもいいのに。
由乃は、ため息をついた。
「もう、いいでしょう?写真の件はわかったから。でも、そんなに必死にならなくてもいいんじゃないの。確かに私と令ちゃんは従姉妹で仲も良いけれど、だからって、令ちゃんと付き合うからって、私と無理に仲良くなる必要はないんじゃない?」
「……え……?」
「ゆっ、祐麒が令さまとっ?!」
壁際から、祐巳さんが素っ頓狂な声を挙げた。すぐに、隣にいる祥子さまにたしなめられて、赤くなって身を小さくしている。
そうか、実の姉である祐巳さんにも内緒なわけだ。
「ちょ、ちょっと待って由乃さん。また、何か誤解している」
困惑した表情で、祐麒くんは由乃と令ちゃんのことを交互に見る。令ちゃんは、顔を横に背けていた。
「確かに、令さんとは会ったけれど、それは相談に乗ってもらっていただけで、付き合っているとか、そういうのではないし」
同意を求めるように、祐麒くんが令ちゃんの方に顔を向ける。
令ちゃんは、苦しそうに顔を歪ませている。
ああ、そうか。祐麒くんは分かっていなかったんだ。令ちゃんの心を、捕らえてしまったことに。なんて、ずるいんだろう。
令ちゃんの表情を見ていると、まるで自分のことのように胸が痛くなってくる。
「……頼むから、俺の本当の気持ちを聞いてくれないかな」
「本当の、気持ち?」
さっきまで落ち着いていた胸の鼓動が、その一言で一気に激しくなりつつあった。
本当の気持ちを聞いて欲しいとは、つまり、そういうことなのか。
「そう。それが一番、言いたくて」
息が苦しくなる。
気づかれないように、そっと唾を飲み込んで、精一杯冷静な振りをして、祐麒くんの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
その透き通るような瞳に吸い込まれそうになるのを、必死に耐えながら――
心の痛みに顔を曇らせながら、令は言葉の一つ一つを胸に刻んでいた。
最初から分かっていたことだったのだ。彼の心が、自分に向いていないことなど。ただひと時、夢のような時間を味わい、ときめきを感じさせてくれた。それだけで十分だったはずなのに。
それなのに、彼の発する言葉は、令の想いを切り裂いて。
はっきりと関係を否定されたとき、それは事実であるのに、理解しているのに、彼の口から直接発せられると、言いようのない衝撃が体を貫いていった。
恐らく、これから紡ぎだされる決定的な言葉。祐麒くんの、由乃に対する本当の気持ち。それを聞いたとき、どうなってしまうのか、予想もつかなかった。
いつのまに、こんなことになってしまっていたのだろう。
祐麒くんの優しさに、温かさに触れて、令の心は溶かされてしまっていたのだ。一度、溶けてしまったものはそう簡単には元には戻らない。ただ、それだけだ。
理由なんて。
後からいくらでもつけられるもの。
「……頼むから、俺の本当の気持ちを聞いてくれないかな」
それは、令自身が祐麒くんに教えたこと。だから、それでいいのだ。祐麒くんのためにも、そして、由乃のためにも。
でもそれを、自分自身の耳で聞くなんて。
果たして、許されないときめきだったのか。
マリア様は、なんて意地が悪いのだろう。
祈るように、真美は二人のやり取りを見つめていた。
その一言一句、決して聞き漏らすまいと、神経をこれ以上ないほどに集中させて。
図々しいのはわかっているし、そんな資格があるとも思っていない。それでも、願わずにはいられなかった。
でも、何を願う?
由乃さんは大切な友達だし、令さまは尊敬している先輩だ。二人に傷ついて欲しいなんて思わない。
だけど、自分だって傷つきたくない。
都合がいいことだって分かっている。誰も傷つかないことなんて、ありえっこないのだ。誰か一人が選ばれる以上、他の人は等しく傷つく。そして、その傷つく人間の中に、自分はいるのだろう。
間違っても、自分が選ばれることがあるなんて思っていない。
祐麒さんと触れ合ったのは、取材のごくわずかの時間だけ。その中でも、何か特別なことがあったわけではない。
こんなことなら、なぜもっと行動しなかったのか。お姉さまのような決断力も、行動力も持っていない自分を恨めしく思う。
もし。
もしも、もう一度チャンスが与えられるのならば。その時はきっと、動き出そう。自らの意思で、自らの足で。
だから、今はただ願う。
誰が悪いとか、何がいけなかったとか、そんなことは何もなかった。みんな、ただちょっと純真過ぎただけ。
だから、マリア様。
優しい痛みが、皆を包み込みますように――
祐麒くんの次の言葉が、きっと全てを決定付けさせるはず。ゆっくりと、その口が開かれる。
「由乃さん。前に偶然、街で出会ってから、思っていたんだ」
ちょ、ちょっと待って。
この話の展開、この祐麒くんの真剣な面差し、そしてこの台詞。どう考えたって、これはアレだ。
まさか、本当にこんなみんなのいる目の前で、言うつもりなのだろうか。
令ちゃんだって見ているこの場で、そんな決定的なことを。令ちゃんが悲しむところを見たくない。だけれども、こればかりはどうしようもない。
「由乃さん。俺は――」
え、どうしよう。
由乃はいったい、なんて応えればいいのだろうか。そんなこと、考えていなかった。祐麒くんのことは、そりゃあ、あれだけど、こんなみんなの見ている状況で、そんなこと言えるわけないじゃない。
ああ、でも。
体は凍りついたように動かなくて。
心は麻痺したように思考を放棄して。
「――――――」
どうなることを自分は望むのか。
この先、どうなってしまうかは分からない。ただ、たとえどうなろうとも、自分自身の未来は、望みは、自分自身で選びたい。
どんな結末になろうとも。
どのような痛みが、この身を貫こうとも。
自分が選んだことならば、きっと納得できるはず。
でも。
それが、自分自身ではなく他の人を傷つけることになるとしたら。そして傷つくのが、人生を文字通り共に歩んできた最愛の人だとしたら。一体、どうすればよいというのだろうか。
どのような選択をすれば良いというのか。
答えなど得られないまま、ただ無情にその言葉は彼の人から紡ぎだされてゆく。
「――俺、由乃さん――」
その、決定的な――
「――由乃さん、俺と――」
聞いたらもう、戻ることのできない――
「……俺と……と、友達になってください!!」
そう、その決定的な一言―――
「………………は?」
この場の雰囲気にそぐわない、ちょっと裏返った声で、素でそう言ってしまった。ちょっと間抜けな顔もしていたかもしれない。
いや、由乃だけではない。令ちゃんも、真美さんも、それぞれなんともいえない驚きの表情を浮かべている。
今まで、この場に漂っていた空気が急に変わったように感じられた。
由乃さんが、困惑の表情で疑問符を返してきた。
何か、まずいことを言ってしまったのだろうかと祐麒は思い、視線を別のところに向けてみると。壁際にいた祐巳が、『だめだこりゃ』といった顔をして頭を抱えている。
祐巳だけではない。他の人も、なぜか、どこか憐みを含んだ目で祐麒のことを見つめていた。
しばらく、そんな気まずい雰囲気の中、誰一人動かず、むしろ誰が最初にこの雰囲気を破るのか、といった感じだったが。
「…………ぷっ」
それは、祐麒の目の前の少女により破られた。
「あはははははははっ……!」
薔薇の館中に響き渡るような笑い声によって。
「あはっ、何それ、あははは」
お腹をおさえて、体を揺らしながら笑っている。
その姿に、半ば呆然としていた祐麒だったが、それは周囲の人たちも同じだったようで、誰も、何も言うことができなかった。
だけど、心なしか場の空気は緩んだように思えた。
「あーあ、なんかすごい、力が抜けちゃった」
「えーと、由乃、さん?」
戸惑いながら、由乃さんに声をかけると。
ようやく由乃さんは笑うのをやめて、その真っ直ぐな目で祐麒のことを見上げた。わかってはいたけれど、そのあまりに可憐な容姿に改めて息をのむ。
「ふーっ……なんかもう、私や令ちゃんがすんごいバカみたいじゃない」
呆れた感じの由乃さん。
少し離れた場所に立っていた令さんを見てみると、疲労したような、それでいてどこか安堵したような複雑な表情を見せていた。
「友達、はいいんだけれど、私や令ちゃんを苦しめた落とし前だけはつけてもらわないと」
「……え?」
構える時間もなかった。
次の瞬間、頬に熱い衝撃がはしり、薔薇の館の外にまで聞こえるのではないかというくらい見事な音が生じた。
あまりの激しさに、祐麒の体は揺れ、二、三歩よろけた。
遅れてやってきた痛みと驚きに目を見張っていると。
「……これで、許してあげるね」
そう言った可憐な美少女は、その愛らしい顔に怖いくらいの満面の笑みを浮かべて、祐麒のことを見つめていたのであった。
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