夕食も終わり、リビングでのくつろぎの時間。
父親はまだ仕事があるといって食事をとった後に職場に戻り、母親は最近ハマリ始めたビーズを自室にこもってやっている。
そんなわけで、現在リビングにいるのは祐麒と祐巳の二人だった。いつも見ているお笑い番組が終わり、次のドラマが始まるまでの空いた時間、祐麒は話しかけた。
「なあ、祐巳。リリアンにさ、こう……ショートカットで凛々しい感じの女の子って、いないか?」
「ん?」
足の爪を切っていた祐巳が、顔を向けてくる。
自宅にいるため完全に弛緩しているのか、爪を切るため前屈みになった部屋着の胸元が、完全に無防備である。
祐麒は蜜柑を手に取りながら、目を背ける。
「ショートカットで凛々しいって……令さまのこと?」
「支倉さんなら、祐巳に聞かなくても分かるっての」
学園祭などで色々と世話になった、リリアンの先輩の姿を思い浮かべる。確かに、ショートカットで凛々しいといえば、まず思い浮かぶであろう。
だけど、違うのだ。
「そう言われても、ショートカットで凛々しい子なんて、沢山いるよ」
「そうなのか?」
お嬢様学園だから、ショートカットの女の子は沢山いても、凛々しいという冠がつくような子はそんなにいないと思っていたのだが。
「他に特徴はないの?」
新聞紙に落ちた、切った爪を集めながら、祐巳が見上げてくる。
祐麒は天井を見上げるようにして、考える。
「特徴といわれてもな……なんてゆうか、独特の雰囲気を持った」
「またそんな抽象的な。もっとこう、具体的に目の下にホクロがあるとか、目を見張るような金髪だとか、そういうのはないの」
「そう言われてもなぁ」
腕を組み、首を捻るがうまい言葉が出てこない。
「そもそもさー、何なの、その女の子がどうかしたの?」
「え、いや、別に」
問われて、ドキッとする。
聞かれるだろうと予測できたのに、とにかく聞くことばかりに気が急いていて、答えを用意していなかった。
祐麒の様子を見て、祐巳が目を輝かせる。
「あーっ、何、ひょっとして誰か好きな子ができたのっ?」
「馬鹿、違うよ、そんなんじゃ」
「いいじゃん、素直にいいなよ、そういうことなら協力してあげるからさ」
嬉しそうな祐巳。
なんで、こんなに生き生きとしているのかと不思議になる。
「ねえねえ、もっと詳しく話してみて。抽象的でもいいからさ、何か思い当たる子がいるかもしれないし」
「もういいよ、祐巳に聞いたのが間違いだった」
「えー、ちょっと祐麒ってばー」
祐巳の声を背に受けながら、リビングを後にする。
今さら、話せるわけもないし、先ほど聞いた以上にうまく表現することも出来なかった。言葉で表すのは、難しい。
自室に戻り、ベッドの上に寝転がって、もう一度思い出す。
祐麒の心の中に焼き付いた、あの、少女の姿を――――
一人の少女が、公園のブランコに座って小さく揺れていたのを、何気なく目にした。名も知らないような公園で、全く知らない女の子だったというのに気になったのは、リリアン女学園の制服を身につけていたからだろうか。
冬と春の境目、春というにはまだ寒く、コートだって手放せないはずなのに、その少女はコートを纏うでもなく冷たい風に身をさらしていた。唯一、首に巻かれたネイビーのボーダー柄のマフラーが、彼女を守る防寒具か。
なぜ、彼女の姿に引き寄せられたのか、祐麒には分からなかった。
だけど不思議と、目が吸い寄せられる。
奇抜な格好をしているわけでもないし、珍妙な行動を取っているわけでもない。遠めだからあまり分からないが、絶世の美少女とか、格別に人目をひくような容姿をしているとかいうわけでもない。
少女は祐麒に気がついた様子は無い。それもそのはず、公園内に植えられた木が、少女と祐麒の間を遮っているから。
公園内には、他に人の姿は見えない。最近の子供は外で遊ぶこと自体が少なくなっているのか、それとも寒い中、わざわざ外で遊ぼうという気にならないのか。寂れた公園の中にあっては、少女の存在が異質なものに感じられた。
少女が小さく揺り動かすブランコが、微かに軋みの音を立てる。
ブランコの鎖を握る手は、手袋も何もしていないままで、冷たくないのだろうかと思う。かつて物凄く寒かった日に素手でブランコの鎖を掴み、くっついて離れなくなって焦って恐怖した幼い日のことを思い出してしまった。
そんな、どうでもいいことを考えたのも一瞬のこと。こんなところで女の子の姿を覗き見みたいなことをしていたら、変態と思われかねない。祐麒は軽く頭を振り、この場を去ろうと、止まっていた足を再び動かし始めた。
少女は相変わらず、祐麒の方を見ようともしない。
祐麒の姿に気がついていないのか、あるいは気がついていたとしても、見ず知らずの通行人をわざわざ気にするわけもない。
横目で少女の様子を少しだけ見ながら、祐麒は公園の横を歩き続ける。徐々に、距離は近くなって表情も分かるようになってくる。
そして、少女の姿を斜め前方からとらえた瞬間、思考が止まった。
少女は、何をしたわけでもない。
姿勢も変えず、声も出さず。
斜め前方とはいいつつも、祐麒から見えるのはほとんど横顔という角度の位置。場所的に、少女の右側面が目に入るわけだが。
一瞬、少女の瞳から、一筋の滴が頬を伝って流れ落ちたように見えた。
え、と思い、瞬きをしてもう一度少女を見てみるが、涙など流してはいなかった。涙を流した痕跡も、ない。
ただ、正面をじっと見据えているだけ。
その瞳は、どこか遠くを射抜くように。
唇は結ばれ、意思の強さを示すように
表情は、何かを思いつめているかのように。だけど、決して泣いてなどいない。むしろ、どこか怒ったようにすら見受けられる。
そこで祐麒は、気がついた。なぜ、思わず目が吸い寄せられてしまったのか。
それは、少女がブランコに座っている姿が、まるでドラマのワンシーンから抜け出てきたみたいに、綺麗に嵌っていたから。
おそらく、他の女の子が同じような状態になっていたとしても、同じことは感じなかったであろう。
空は曇り空、冬の寒々しい空気、公園内の木々は煤けた灰色にしか見えないし、小さな公園には他に小さな滑り台と砂場があるくらいで、目を惹かれるようなものは何もない。
だけど、女の子一人だけ違っていた。
少女の凛々しい眼差しが、気高さを感じさせる表情が、どこか切なさを思わせる佇まいが、少女の周囲を変哲の無い公園から舞台に変えていた。
そういった意味では、確かに少女の存在は異質だった。初めに感じた異質さは、これだったのかと得心する。
次の瞬間、少女の顔が、祐麒の方に向けられた。さすがに、立ち止まって少女のことをじっと見つめていたので、不審に思われたのだろう。
どうするべきかと考えがまとまらないうちに、少女はブランコから立ち上がり、軽くスカートをはたき、鞄を持って祐麒の方に向かって歩いてきた。
思わず、心の中で身構える。
少女は祐麒から数歩手前で立ち止まり、口を開いた。
「花寺の方ですよね。何か、御用でしょうか?」
よく通る声だった。
美しい声、というのとは少し違う。よく響き、聞き取りやすく、そして心臓に直接届いてくるような声だと思った。
「いえ、ちょっと知り合いに似ていたもので……でも、勘違いでした、じろじろ見るような格好となってしまい、不快に思われたのでしたらすみません」
咄嗟に、そんな言い訳が口をついて出た。我ながら、焦ることもなく、どもることもなく、平常心のままよくそんなことを言えたものだなと、後になって思う。
まるで、自分ではない誰かを演じているような、不思議な感覚だった。
「そうですか。それでは、失礼します」
少女は軽く頭を下げ、歩き出す。
祐麒もまた、軽く頭を下げる。
少女の足音が近くなり、祐麒の横を通り過ぎる。
背筋を真っ直ぐにのばし、見ているだけで惚れ惚れとしてしまうような歩き方だった。歩くリズムにあわせるように、少女の黒い短い髪の毛が揺れ、吐き出された白い息が薄く広がり消えてゆく。
振り返ることなく、祐麒も歩き出した。
もう一度、少女の姿を確認したい誘惑は、確かにあった。それなのに不思議と、振り返ろうという気持ちは起きなかった。
きっと、彼女のことは忘れない。
もう一度姿を見れば、必ず思い出せる。
あの、彼女を纏う凛とした空気は、祐麒が生まれて初めて感じるものだったから。
高城典。
彼女のその名前を祐麒が知るのは、まだしばらく先のことである――