今年の冬は、何十年ぶりかの大寒波が押し寄せてきていると、テレビのニュースでも新聞でも大きく取り上げていた。だから、厚着をしてコートを着てマフラーを巻いて手袋もして、カイロだって懐に忍ばせて完全装備だというのに、それでも寒い。外気にさらされている顔面から全身に冷気が広がっているのだろうかと三奈子は考えた。
新年となって気分も一新、といきたいところであったが、自然の力にはかなわない。なぜ、今年に限って例年以上に寒い冬なのかと、世の中を恨みたくなってくる。もちろん、そんなことは逆恨みにすらならないことは理解しているが。
自分が吐き出す白い息が目の前でゆっくりと消え去っていくのを、何となく目で追いながら、自然と視線を空に向ける。
雪はまだ見ないけれど、いつ降ってもおかしくないような気温と天気。降り積もれば雪景色は綺麗だが、素直に楽しいと思えたのは何歳までだっただろうか。年を重ねるうちに、雪が降っても外で遊ぶことはなくなっていた。いつの間にか。
そうして、気がつかないうちに自分自身は変わっていく。何が変わったのかも分からないままに育っていき、ある日突然、昔のことを思い返して自分が変わったことに気がつくのだろう。だとすると、今も自分自身は色々と変わっているのだろうか、などと無意味に哲学的なことを考えているうちに時間は過ぎてゆく。
「……それにしても、遅い」
約束の時間を、既に二十分も過ぎている。
……それはまあ、今日いきなり、しばらく前に呼び出したのだから仕方ないのだろうけれど、OKしたのだからきちんと時間通りに来て欲しい。何より、この寒空の下でひたすら待つというのは辛い。
腕時計を見る。
先ほどから三分も経っていない。あと、どれくらいで来るのだろうか。
ただひたすらに寒さを我慢して待ち続けていると。
「―――ねえ君、一人?」
変な男が突然、話しかけてきた。
「あ、そんな警戒しないで、怪しくないから……っていっても信じられないか。ええと、ほら、これ名刺」
男はポケットから紙片を取り出した。
訝しがりながらも慎重に受け取ると、そこには聞いたことも無いような会社の名前と、その男の名前らしきものが記されていた。
「小さいけれどアイドルとか女優を輩出している事務所でね、常にそういった卵を探しているわけだけれど、そこで君を見かけたわけさ」
「―――――?」
「いや、俺の目に狂いはないはず。君は絶対に磨けば輝く!どうだい、興味ないかな、そういうの。あ、こんな寒いところで立ち話もなんだから、良かったらうちの事務所に来ないかい?そんなに遠くないところにあるから―――」
まくし立てるように話しながら、男は三奈子の腕に手を伸ばしてきた―――
冬の街を駆け抜ける。
時計の時刻を見ると、既に約束の時間から二十分も過ぎていた。まずいな、と思ったところで祐麒は我に返った。
そもそも、三奈子さんから連絡が入ったのが約束の時間の三十分前。
『―――ねえ、暇?だったら、初詣に行かない?』
携帯電話の向こうから、能天気なお誘いがやってきた。
ちなみに、携帯電話は昨年の十二月に購入したばかりである。生徒会の仕事とかも忙しく、連絡をつけるに色々と重宝するだろうと購入したものであって、決して三奈子さんと連絡を取るために手に入れたわけではない。家族割引だし。
ただ、これがあれば家族のことを気にせず三奈子さんが電話をしてこられるのは確かなことで……って、やましいことは何も無いのになぜこそこそと隠れるような真似をしなければならないのか。
話はそれてしまったが、つまり今日の約束は全くの不意打ちであり、しかも理不尽なものであるから、たとえ遅れたとしても責められる筋合いはないはずである。それどころか、無理な注文を受けてやってきたのだから、むしろ褒められるくらいでないとおかしい。
そう考えた祐麒は、足を緩めて駆け足から急ぎ足、そしてごく普通の徒歩のペースへと戻した。
「そうだよ、なんで俺がこんな必死になって走らなければならないんだ……」
今年一番の寒さと天気予報でいっていたくらいなのに、汗をかきそうになっていた。
心と身体を落ち着かせて、悠然とした態度で待ち合わせに指定された場所にたどり着く。見れば、すでに三奈子さんの姿はあった……のだが。
祐麒が近寄る前に、横から変な男が声をかけていた。
「ナンパか……?」
まあ、三奈子さんも外見だけならなかなかの美少女であるし、おかしくはない。しかし、彼女の行動についていくには相当の精神力を要することを他人は知らない。そっと、二人の側に近づいていく。
「……あれ」
ただのナンパかと思っていたが、どうも会話の雲行きがあやしい。さりげなさを装っているけれど、三奈子さんの身体を頭からつま先まで見定めるかのように視線を動かしたりしていて、話している内容も、これはナンパというよりか……と思っていると。
「―――良かったらうちの事務所に来ないかい?そんなに遠くないところにあるから―――」
などと言って、三奈子さんの身体に手を伸ばした。
「――ヤロウ!」
考える前に体が動き出していた。
三奈子さんの腕に触れようとしていた男の手を掴んで捻り上げ―――ようと試みたが、慌てていたせいか足をもつれさせてつんのめってしまった。なんとか踏ん張ろうとしたが、結局、二人の間に倒れこんでしまった。みっともないが。
「うわっ、なんだなんだ?!」
「っ?!……祐麒く」
驚く二人を尻目に素早く立ち上がると、三奈子さんをかばうようにして男の前に立ちふさがる。
「えと……何か、彼女に御用でも?」
本当は、勢いよくタンカでもきろうかと思っていたのだが、目の前の男の威圧感というか、どこか『本物』を思わせる目つきに、情けない声と情けない言葉しか出てこなかった。はっきりいって、蛇に睨まれた蛙の状態だ。
男は値踏みするかのように、しばらく祐麒のことを見下ろしていたが。
「―――こいつは失礼、既にお相手がいたようで」
肩をすくめると、興味がなくなったかのような顔をする。視線をあさっての方向に向けながら足を踏み出し、そしてすれちがいざまに祐麒の耳元でそっと囁いた。
「坊や、その姉ちゃん今は野暮ったいナリだけど磨けば光るぜ。ま、それも男次第だけどな。せいぜい優しく磨いてやんな」
「―――――っ?!な……な、なっ」
祐麒が口をぱくぱくさせている間に、男は人ごみの中に消えていった。
結局、何者だったのだろうか分からないまま。
「ちょっと、祐麒くん」
その声に我に返る。
「もー、祐麒くんが来るの遅いから、暇人だと思われちゃったじゃないの」
「はあ?!大体、三奈子さんがいきな……り……って三奈子さん、その格好」
「え……な、何か、ヘン?」
「変というか……」
着膨れしています。
まあ、はっきりいってしまえばちょっとばかりダサいわけで。
「う、うるさいわね、寒いんだからしようがないでしょ」
むくれて、そっぽを向く。
「大体、祐麒くんが約束の時間にちゃんと来ないから」
「いやいや、そもそも時間設定に無理があったんだって。あ、それよりも三奈子さんこそ変な男に声かけられて、言われるがままになっていたら駄目じゃないですか。いつも言っているでしょう、知らないおじさんについていっちゃいけないって」
「……私は小学生か」
「とにかく、俺以外の男についていっちゃ駄目ですからね」
「むー、横暴だわ」
「なんとでも言ってください」
……
…………
………………
いや、ちょっと待て。
今、どさくさに紛れてとんでもないことを口走っていなかっただろうか。それこそ、とらえようによっては横暴というか、むしろ。
「祐麒くーん、早く行こうよ、寒いよー」
思考を遮る、その声。
頭を掻いて、苦笑して。
「はいはい、今行きますから」
前を行く馬の尻尾を、ゆっくりと追いかけるのであった。
神社に到着しても寒さは一向に変わらない。雲の切れ間から太陽が少し顔を出すようになったというのに、全くその威力が感じられない。
「さすがに、1月半ばになると人も少ないわね」
毎年、大勢の人で賑わう有名な神社だったが、今はそんなに人の数は多くない。
石畳の上を歩きながら、いつものことではあるが三奈子さんは落ち着きが無い。常に、どこかにスクープが、ネタが転がっていないかと探し回る新聞記者としての習性が身についてしまっている、とは本人の弁だが。
「しかしなんで突然、こんな日に初詣に行こうなんて思ったんですか」
「三が日に行けなかったからねー。でも、やっぱり行っておきたいじゃない」
「それで、いきなり俺を呼び出しですか」
「かっ……勘違いしないでよね。本当は最初、真美とか誘ったんだけど都合がつかなかったから、それで祐麒くんを誘ったの。別に、いきなりではありません」
そういう意味で言ったわけではないのだが、と思ったが、三奈子さんは早足で祐麒を置いてずんずんと進んで行くのであった。
お賽銭を投げ入れて、手を合わせてお祈りをする。
この手の場所ではいつの時も変わることのない儀式。いつもと違っているのは、隣にいる人で。
一年前、いや半年前には想像もつかないような事が現実になっているわけで。
祐麒は、すぐ隣で手を合わせて目を閉じている三奈子さんをちらりと見た。こうして、静かに黙っていれば十分に綺麗なのに……と思う。
「――どうしたの?」
不意に、ぐりんと首を九十度曲げて祐麒のことを見る三奈子さん。
「いいいや、随分と熱心そうだったから、何をお願いしているのかなって。ああ、やっぱり大学受験、必勝祈願とか?」
「は?やあねえ、そんなことお願いするわけないじゃない」
「え?」
そんなことって、受験生である三奈子さんにとっては十分に重要なことではないだろうか。それとも、お願いする必要なんてないくらい、自信があるとでもいうのか。
「だって、試験は自分の力で受かるものよ。そりゃあ、知っている問題が出るとか、ちょっとは運もあるけれど、神様にお願いしたって自分がやんなきゃ絶対に受からないの」
びっくりした。
一緒にいるときは遊んでばかりいるから、三奈子さんが受験に対してこんなにも真剣な表情を見せたことに、素直に驚いた。
「自分のやりたいことは神頼みじゃなくて、自分で努力しなきゃ、ね?」
「そうだ……ね」
新聞記者になりたいと、三奈子さんは言っている。だから、目標に向かって頑張っているのだろう。例え、傍からはそう見えなくても。
でも、それじゃあ。
「何、お願いしていたんですか?」
「……え?」
「いや、受験のことじゃなかったら、何を一生懸命お願いしていたのかなって」
「う~ん、それは、ねえ」
人差し指を顎にあてて、ちょっと上方を見るようにして考える三奈子さん。
「やっぱりこういうのはアレでしょ。ナイショ、ってやつで」
「えー、なんですかそれ」
不満そうに告げると、今度は三奈子さん、悪戯っ子みたいな表情をして祐麒のことを横目で見てくる。
「……じゃあ、祐麒くんは一生懸命、何をお願いしていたのかな~?」
「え」
まるでマイクでも持っているかのように握り締めた拳を、口元に向けてくる。
―――言えるわけがないではないか、つい、『三奈子さんがちゃんと合格しますように』と願ってしまったなんて。
「ええと、あれ、ほら、そう、世界平和、みたいな?」
「……何それ、つまんない。本当のこと言いなさい」
眉をひそめる。
「三奈子さんも言ってないから、おあいこでしょ。俺もナイショ、ということで」
「あのね、祐麒くんが言っても可愛くないんだから」
「え、自分は可愛いと思っていたんですか」
「……ほほう、なるほど。そう言うか」
三奈子さんの目つきが変わる。
いや、悪戯っ子のような感じであることに変わりは無いのだが、さらに拍車がかかったというか、悪巧みを思いついたかのようなというか。
「本当のことを言いなさい。さもないと……」
「さ、さもないと……?」
じりじりとにじり寄ってくる三奈子さん。その、手つきが、指の動きが怪しい。
そこで気がついた。いつの間にか、手袋をとっている。
「ふふ、覚悟っ!」
「―――――っっっ?!」
声にならないとは、このことだった。
しかし、次の瞬間には。
「ぎゃーーーーっ!つ、冷てえっ?!!!」
「どう、手足の末端の冷たさには自信があるんだから」
「意味不明なところで自信持たないでくださいっ!!!うひぃっ!」
突然、首筋に押し付けられた冷たい物質。それは三奈子さんの手であり、シャツの中、背中の上部にも当てられて。信じられないほどの冷たさをもって、体温を奪う。
「ほら、本当のこと言いなさいよ」
「ははは、離してっ!マジ冷たいから、死ぬ、死ぬっ!!」
身をよじり、離そうとするけれどしつこく絡み付いてきて。
周囲の人たちが好奇の視線を向けてくるのも分かったけれど、構っていられないくらい、三奈子さんの手は冷えていた。きっと、冷え性チャンピオンになれるくらい。
「やめてくれ~~っ!!!」
祐麒の絶叫が、閑静な神社に響き渡った。
「……ごめんなさい」
ここは某ファミレス店内。
ボックス席の向かいで、三奈子さんは体を小さくして謝ってきた。
店内は暖房が十分に効いており、さすがに三奈子さんも着込んできた服を少し脱いで、身軽な格好になっている。
神社でのあの騒ぎを聞きつけてきた職員さん(というのか?)に、『境内では必要以上に騒がしくしないようにしてください』と、静かな口調の中にもはっきりとした重みを持って注意されてしまったのである。
これが、お正月三が日の賑わっているときならともかく、今日は客の数も落ち着いていて静かだったから、奇声を上げて騒いでいたら、それは注意もしたくなるというものだろう。
というわけで、元凶である三奈子さんは殊勝に反省をしているというわけである。
そのはずだった。
「……いや、本当に反省してます、三奈子さん?」
「え?」
運ばれてきたラザニアを目の前にして、さっきまでうなだれていた姿はどこかに消し飛んでしまっていた。
「もちろん、反省していたわよ。で、心機一転したと」
「ま、いいですけどね」
いつまでも落ち込んでいても仕方ないし、そこまで目くじら立てるほどのことではない。自身が注文したクラブハウスサンドをかじりながら、嬉々としてラザニアを頬張る三奈子さんを眺める。
「しかし、あの冷たさはちょっと尋常じゃないですよ」
「体質だからね、どうしようもないのよ。勉強の時とかね、温まるまで筆記はちょっと辛いのよねー」
「ふーん……しかし余裕ですね、もう入試は目と鼻の先なのに、こんなとこで遊んで」
「失礼ね、これでも年末からずーっと勉強漬けで、久しぶりの休息の日なんだから」
くわえていたスプーンをビシッと突き出す。
「……これで、試験が終わるまで休息はなしかなー」
レモンティーの注がれたグラスのストローに口をつける。
「あと一ヶ月くらいでしょう。我慢してくださいよそれくらい」
「そうよねえ、ここで頑張らないと意味ないし」
大学受験のこと。
リリアンの、花寺の学園生活のこと。部活動、生徒会活動のこと。
夏から今まであった出来事のこと。
たわいもない話をして、軽く食事をして、本当にただそれだけだったのに時間が流れすぎるのは驚くほど早く。マジックにでもかかってしまったのではないかと思えるくらいで。店を出たときには、外はすっかり暗くなっていた。
「うわっ、日が落ちて寒さ倍増っ?!」
叫ぶ三奈子さんの言はさほど大げさなものではない。冬の朝と夜は、反則的な寒さが襲ってくるのだ。
「冷えるわ~っ」
「……あれ、三奈子さん、右手の手袋は?」
なぜか、左手の手袋しかはめていない。
「ああ……神社ではずしたときに、ポケットから落ちたみたいで」
バツが悪そうな顔をする。
「全く、何をやっているんですか」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あれ、こういうときってあれじゃないの?ホラ、『俺の手で暖めてやるよ』とか言いながら、無言で手を握ってきたりして」
「言っていること矛盾してるのに気がついてます?それに、本当にそんな恥ずかしいこと言ったら、どう思います?」
「うーん。ヒくかも。いや、そんなことは無い……かも?むむむむむ」
「そんなに真剣に考えなくても」
立ち止まってしまった三奈子さんを促す。
恋人同士でもなんでもないのに、ドラマや漫画の主人公のようなことが素で出来るわけもない。
「ほら、寒いんだから早く帰りま……」
言いかけたところで。
ひんやりとした感触が頬に伝わってきて。
「なっ……」
「へっへっへ、祐麒くんがしてくれなくても、勝手にしちゃうから」
正面で、無邪気に笑っている三奈子さんの手は、祐麒の頬に添えられていて。その手はひんやりどころか、凍るように冷たいのだけれども。
声を出すことも、体を動かすこともできずに、ただその笑顔と、冷たくも柔らかい手の感触に心奪われて。
「あー、祐麒くんは温かくていいねー」
「お……俺はカイロですかっ」
そんなどうしようもない台詞を言うことしかできず、祐麒はようやくのことで歩き出す。離れてゆく指を名残惜しいと思いながら。
今年一番の寒さだと言われているのに、どうしようもなく体が、顔が熱くなってくる。それも皆、今自分の隣を歩いている女性のせいだというのに、肝心の本人はといえば気にした様子も無く歩を進める。
「いいじゃない、少しくらい。手、冷たいんだもん」
道路わきの古ぼけた街灯の明かりに照らされているだけなのに、まるでスポットライトを浴びているかのように三奈子さんは輝いて見えて。
寒さで厚着して着膨れして、冷え性で手足の末端が恐ろしいほどに冷たくて、手袋を落としてしまうように所々ぬけていて、マイペースで自分勝手なところもあるけれど。
別に、特別に磨いたり、何かをしなくても素のままで十分に三奈子さんの笑顔は眩しいくらいに輝いて見えて。
むしろ、何もしないままのほうが良く思えて。
「―――あ、そうだ、祐麒くん」
「ん?」
歩きながら。
「挨拶、忘れてた。明けましておめでとう。今年も、宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。
「こちらこそ、明けましておめでとうございます」
ごく自然にそう言って。
「今年も宜しく―――」
今年もまた賑やかな年になりそうだと思いながら、いつのまにかすっかり晴れ渡った真冬の星空を見上げるのであった。
おしまい