<中編>
雪代沙紀は、小さいころから男子に人気があった。物凄い美少女というわけではないが、どうやら、『男ウケ』する顔をしているらしい。事実、今まで何人もの男の子が近づいてきたし、告白してきた。沙紀の方から男子に媚びをうったことなどない。
大学に入っても、それは続いていた。同じクラスとなった男子はもちろん、他のクラスの男子の目が向けられていることにも気がついたし、サークルの勧誘活動でも随分と熱心に、各所から声がかかったものである。
そんな沙紀が先日、とある場所で屈辱の目に遭った。
同じクラスの福沢祐麒。
沙紀に好意を持っていないだけなら、別に良かった。沙紀だって、全ての男性が自分のことを好きになるなんて思うほど、自惚れているわけではない。
だが祐麒は、沙紀のことをまるで覚えていなかった。
冴えない男子の多いクラスで、これは外れだと思っていた中、祐麒はそれなりに整った顔をしていて、少し中性的で可愛らしい感じがして、沙紀の好みではないがクラスの中ではマシな方だと思っていた。
だからクラスの親睦を深める飲み会の時、祐麒の隣の席を確保して、お酒も注いだし料理も取り分けてあげた。お喋りも他の男子と比べて沢山したし、飲み会の後半くらいには、ちょっと腕がふれあったり、軽く肩にもたれかかったりもした。
だというのに、名前どころか、顔を見てもぱっと思い出せないとはどういうことか。いくらまだ入学から日が浅いとはいえ、飲み会でそこまでしたのに。
沙紀は、プライドをかけて祐麒を落とすことにした。噂では、年上の彼女がいるらしいが、知ったことではない。奪ってしまえばいいだけのこと。
少しずつ近づき、仲良くなりつつあり、周囲にもアピール。そして今日の飲み会で、沙紀は仕上げにかかることにした。
一次会は普通に楽しく過ごし、二次会のカラオケで隣の席を確保してお喋りして、適当な時間で帰るといって、送っていってほしいと頼んで祐麒と一緒に外に出る。夜の街をゆっくり歩きながら、沙紀は仕掛ける。
「ねえ福沢君、私、少し気持ち悪くなってきちゃった」
「飲みすぎちゃった?」
「……かもしれない。ちょっと、休みたいな」
言いながら、ちらりと横に目を向ける。
祐麒が、「えっ?」というような顔をする。
目の前には、ラブホテル。
笑いたくなっちゃうような理由だが、どうせ男の子は、こういう展開とか待っているんでしょう?
内心で思いながら、祐麒の服の袖をつかむ。
顔を恥しそうに赤らめながら俯き、でも時々、ちらりと上目づかいに祐麒のことを見つめる。
祐麒だって、もう分かっているはずだ。気持ちが悪い、なんていうのは嘘で、沙紀が誘っているのだということは。
沙紀が見るところ、祐麒はこの手の誘いに弱いはず。というか、男からしてみたら、こんな風に誘われたら乗らないわけはないだろう。例え彼女がいようと、相手の女の方から誘ってきているわけで、自分は悪くないという免罪符もある。
だからといって、大らかに、大胆に誘うと、遊んでいると思われる。真面目な祐麒には、そういうのは駄目かなと感じたから、勇気を出して誘ってみました、的な女を演じる。
「で、でもまずいよ、雪代さん」
「気持ち、悪いの。ちょっとだけ、ね」
人のいい祐麒だから、本当に具合が悪いのかもと心配するだろう。無碍に断ることはできないはず。いや、確実に頷く。
「う……」
口元を抑えてみせる。
「わ、わかった。本当に、休むだけだから」
「うん……」
思惑どおりに、二人でホテルの中に入る。入ってしまえば、もう逃げるなんてしないだろう。沙紀のような女を目の前に「どうぞ」と差し出されて、指をくわえて何もしないなんて、健全な男子大学生じゃない。
「ちょ、ちょっと雪代さん、休むだけだって言ったじゃない!」
「でも……福沢くんだって、分かっていたんでしょう? 私……私、凄い勇気を出して、ここにいるんだよ?」
往生際悪く逃げようとする祐麒を、追いかける。
「ほら、心臓、こんなにドキドキしているんだよ」
そう言って、祐麒の腕を取り、自らの胸にあてようとする。
祐麒が逃げようと、沙紀の腕を乱暴に振りほどく。
「きゃっ」
「わっ!?」
バランスを崩して尻もちをつく沙紀。
「いたっ……もう、福沢くん、何するのよ……って、福沢くん、大丈夫っ!?」
なんと、祐麒が大の字になって倒れていた。どうやら、倒れた拍子にどこか頭でも打ったようだ。
まさか死んでいるわけじゃ、なんて心配もしたが、単に気を失っているだけと分かって安心する。
安心したところで、これからどうするか。気を失って倒れている祐麒を見下ろして、沙紀はとりあえず既成事実を作り出すことにした。
懸命に祐麒の体をベッドの上に引っ張りあげると、服を全部脱がす。部屋に備え付けの避妊具を取り出し、使用した形跡を作ってゴミ箱に。ティッシュを何枚か取り出し、同じようにする。
ベッドのシーツを乱し、シーツにも痕跡をつける。
沙紀自身も服を脱ぎ捨てて全裸になると、ベッドの中に潜り込んだ。
そしてそのまま夜が明け、今に至るというわけである。
祐麒は途方に暮れていた。
裸の沙紀が隣にいる。恥しそうにシーツにくるまっているが、滑らかで白い肌、柔らかそうな胸の膨らみがちらりと見え、慌てて目をそらす。
全く記憶がないが、状況からみて、沙紀を抱いてしまったとしか思えなかった。
ゴミ箱には避妊具や丸められたティッシュが捨ててあり、床にも落ちている。
「えと、あの、雪代、さん」
声をかけると、背を向けて横になっていた沙紀が、おそるおそる祐麒の方に顔を向ける。祐麒と目が合うと、途端に顔を赤く染める。
「わ……私、嬉しかった。その、は、初めてを福沢くんにあげられて……」
沙紀の言葉に、殴られたような衝撃を受ける。
そして目に飛び込んでくる、シーツについた赤黒い染み。
「あ、はは……」
祐麒の視線に気がついて、恥しそうに染みを隠す沙紀。
本当に、やってしまったのか。どうにかして逃げようとしていた記憶はあるが、途中からぷっつりと記憶が切れている。
「いや待て、確か倒れて頭を打って……」
頭に痛みがはしる。
「そうだよ、倒れて目を回して、びっくりしちゃった。私、パニックになっちゃって。でも、しばらくしたら気を取り戻したんだけど」
「……だけど?」
「気付けに水を飲むって言って、間違ってウィスキーの瓶を手にとってグイっと……」
「マジで……?」
「うん。あの、もしかして、覚えていないの? その……わ、私と、えっちしたことも」
「えっ、あ、その、いやそれはその……ご、ごめん」
こういう時、平気で嘘をつける性格でもないし、嘘をついたところで顔を見ればすぐにばれてしまうだろう。素直に祐麒は頭を下げた。
怒られるかとも思ったが、意外なことに沙紀は薄く笑った。
「ううん、昨日はその、私が誘っちゃったわけだし、私は、好きな人に抱かれて、嬉しかったから」
「えっ! す、好きって」
「やだなぁ、福沢くん。好きでもない人を相手に、そんなこと、私出来ないよ」
唖然とする祐麒。
だが、いつまでも腑抜けたままではいられない。今日も大学での講義は待っており、のんびりと状況を省みている時間はない。
シャワーを浴びて、身だしなみを整えて、部屋を出る。初体験、初ホテルのはずなのに、全くの実感がないまま後にすることとなった。
ホテルを出て驚いたのは、意外と郊外だったということ。昨夜、二軒目の店を出てから夜風にあたって散歩がてらに歩いていたのだが、気づかぬうちに随分と駅から離れたものだ。
何を話したらよいのかも分からず、無言で足を動かす祐麒。とにかく、まずは落ち着いて考えたかったが、それすらもままならぬうちに駅に到着する。
「あ……じゃ、じゃあね、また」
恥しそうな笑みを浮かべて、沙紀は通勤客の波間に消えていった。
そして祐麒はといえば、返事をすることもできず、追いかけることもできず、ただ上げかけた手で宙を掴むことしかできなかった。
翌日、どんよりとした気持ちを引きずって登校する。三奈子とは、ますます会い辛い気持ちになったのは当然のこと。三奈子が男と歩いているのを見たのがきっかけだったはずなのに、いつの間にか祐麒の方が後ろめたさを持ってしまっている。
また、沙紀に対しても、どのように接したら良いのか困ってしまう。責任を感じないわけではないが、沙紀に対しては恋愛感情を抱いていない。何と言われようとも、謝り、距離を置くしかないと分かっているのだが。
沙紀が大学に来たのは、昼休みに入ってからだった。
「えっと、お、おはよう、雪代さん」
「うん……あ、はは、なんだか恥しいね、こういうの」
恥しそうにはにかむ沙紀。
どう応じれば良いのか、困る。
「ねえ、実は今日、お弁当作って来たんだけど、良かったら、一緒に食べない?」
「いや、でも、もう購買で買っちゃったから」
「パンやおにぎりなら、とっておいて後でも食べられるじゃない。ね、いいでしょう?」
断る理由が見つからない。
いや、沙紀と一緒に食べたくないと言ってしまえればいいのだが、昨夜のこともあり、祐麒にはとても昨日の今日でそんなことは口に出せなかった。
結局、沙紀の押しに負けて、中庭で一緒に沙紀の作った弁当を食べたのであった。
予定通りの展開に、沙紀は内心で笑う。
本当にここまであっさりと引っ掛かるとは、予想以上だったかもしれない。よほど人が良いのか、それとも単純なのか。
だがどちらにしろ、沙紀から見て、祐麒はそれなりに好ましい男子だった。顔はまあまあで、性格だって悪くない、人が良すぎるのが欠点かもしれないが、悪いよりかは好ましいだろう。最初はあまり好みの顔でないかとも思ったが、別に駄目だというわけでもない。このまま本当に付き合うのも、悪くないかと考えている。
そのためにはまだ、押しが足りない。
弁当を食べ終えた沙紀は、ふと視界に入った人影に、口の端をあげる。
「あ、それじゃあ私ちょっと、まことに用があるから、先に行くね」
立ちあがると、祐麒を残して人影が消えた方向に足早に向かう。周囲を探りながらしばらく進んだところで、目当ての人物を見つける。
「築山先輩、ちょっといいですか?」
ポニーテールが揺れて、三奈子が立ち止まる。
「お話したいことがあるんですけど、お時間、ありますか」
頷いた三奈子と一緒に、人気の少ない校舎の、階段の裏に行く。
「お話って何かしら、雪代さん」
三奈子が先に口を開いて訊いてきた。
三奈子のことは良く知らないが、沙紀にとってはどうでもよいこと。正面から見れば、それなりに美人で、それなりにスタイルも良いようだけど、それだけだ。去年の準ミスということだが、大したことはないなと思った。
「分かっていると思いますけれど、福沢くんのことです」
「祐麒くんのこと? ああ、雪代さん、仲良いみたいね」
「はい、最近は特に」
穏やかに話す。
校舎の外から、学生の歓声が聞こえた。どうやら、昼休みにバレーボールで遊んでいたようだ。
「私昨日、福沢くんに、抱かれました」
三奈子は、無言だった。
「別に構わないですよね、福沢くん、築山先輩とは付き合っているわけじゃないって、今は彼女いないって言っていましたし」
言いながら、微妙に沙紀はイラついていた。爆弾を投下したつもりだったのに、三奈子の表情がまったく変化を見せないからだ。驚きのあまり固まってしまっている、というわけでもなく、ただ冷静に、沙紀の言葉を聞いて平静なままなのだ。
沙紀は更に、追い打ちをかけることにした。
「……ヴァージンを、捧げたんです。好きな人に捧げられて、嬉しかったです」
そこまで言っても、三奈子の表情は読めなかった。怒るなり、泣くなり、驚くなり、なんらかのリアクションを期待していた沙紀は、肩すかしをくらった気分だ。ひょっとして、本当にただ仲の良い先輩後輩の関係で、恋愛感情など持っていなかったのだろうか。
いや、そんなはずはない。見ていて、そんなんじゃないと思っていた。ならば今の三奈子は、単なる虚勢か。顔色を変えないのは見事だが、それがどうしたというのか。事実は今さら、翻せないのだから。
「そういうことなので。福沢くん、真面目で優しいから、きっと私のこと、大切にしてくれると思っています」
「それを、私に言いたかったの?」
「はい。その、築山先輩、福沢くんと仲が良いじゃないですか。それで、誤解とかあったら嫌だなと思いまして。私と福沢くんが付き合っても、別に構わないですよね?」
適度にか弱そうな下級生を演じる。反発を招くような態度を取るのは、あまり得策ではない。かといって、下手に出すぎる必要もない。
さあ、三奈子はどう答えるかと待ち受けていると、三奈子の携帯電話が鳴り出した。
「あー、安奈たちのところ行かなくちゃ! ごめん、雪代さん、私急ぐんで、それじゃ」
電話に出て話しながら、三奈子は沙紀の脇を通りぬけ、校舎の奥へ駆けて行った。
答えは聞くことが出来なかったが、明白だと思った。
あれは、逃げたのだ。
沙紀は得意げに微笑むと、ゆっくりと教室に向かって歩き出した。
「ちょっと祐麒くん、一体どういうことなのよっ!?」
珍しく興奮した様子で迫ってくる蘭子に、祐麒は目をぱちくりさせて驚く。
午後の講義に出ようと思っていたところ、いきなり現れた蘭子、安奈、雅の三人に拉致られて、近くのカラオケ店に連れ込まれた。ここなら、周囲を気にせずに個室の中で話すことが出来るからだ。
「三奈と一体、何があったっていうの!?」
「別に、何もないですけど」
「何もなくて、じゃあなんで三奈子、大学を休んでいるのよ?」
安奈の言葉に、祐麒は目を見開く。
「……その顔じゃ、知らなかったみたいね」
知らなかった。三奈子からはそのような連絡は、電話でもメールでも受けていなかった。本当にここ数日、文字通り三奈子とは何もなかったのだ。
いや、厳密にいうならメールのやり取りはあったが、大学を休むとかそういう話は全くなかった。祐麒と三奈子は学年が違い、受ける講義も異なるので、会わないとしても別に不思議な話ではない。
「一昨日の午後から休んでいて、携帯にも出ないし、祐麒くんなら知っているかと思ったんだけどなぁ」
テーブルに伏す安奈。
カラオケのモニターに映っている歌手の歌が、空しくルーム内に響く。
「……ひょっとして、前に見たという男の人と」
「ちょっと、雅!」
「そうよねー、祐麒くんはいつの間にか、別の女の子と仲良くなっているし」
「安奈まで!」
「いや、いいんです、蘭子さん」
祐麒は首を振る。蘭子は心配そうな顔をして見つめてくる。安奈と雅は、少し驚いたような目をしている。
雅や安奈は悪くないし、言っていることだって間違っていない。三奈子に甘えていた自分自身が招いた事態なのだ。
どこかで、三奈子が離れて行くことなんてないだろうと、勝手に思っていた。そんな保証など、どこにもないというのに。
「ふぅん……で、それが分かったのに、祐麒くんは何をしているの?」
「……え?」
俯けていた顔をあげると、眉を吊り上げ、鋭い目つきをした安奈が、ソファに上がり込んで立て膝を突き、睨みつけるようにして祐麒を見据えていた。
雅は相変わらずの無機質な無表情、蘭子は一人落ち着かない不安そうな様子で安奈と祐麒を交互に見ている。
「三奈子のこと捕まえときたいなら、今からだって電話でもメールでもなんでもして、さっさと自分の隣に連れ戻せっつってんのよ」
「自分で動かなければ、何も始まらない。つまらない言葉だけれど、それは真実だからこそつまらない言葉」
安奈と雅の言葉が突き刺さる。
「そうだよ祐麒くん。私も、三奈と祐麒くんが仲良しの方が、嬉しいし」
蘭子がそっと祐麒の手を取り、訴えるように見上げてくる。
「……そう言いながら蘭子、その体勢だと祐麒くんから確実におっぱい見えているよ」
「ひゃぅっ!?」
胸ぐりの緩いシャツで前かがみになっていたので、確かに見下ろす格好となっていた祐麒からは、蘭子のブラと胸が見えていて、祐麒は赤くなって顔をそらす。蘭子は慌てて腕で胸元を抑える。
「蘭子も結構、ヤる。落ち込んでいる祐麒くんに、ここぞとばかり色仕掛け」
「しかも、蘭子もそういうとこは少し天然入っているからね、慰めているうちにいつしか奪っちゃうってパターンかぁ?」
「ふ、二人ともうるさい! と、とにかく祐麒くんは、さっさと三奈を捕まえること!」
真っ赤になった蘭子が、両手をぶんぶんと振って叫ぶ。おかげで、先ほどまでの少しばかり重い空気が、ちょっと軽くなる。
祐麒は無言で頷き、携帯電話を手に取る。
迷うことはない、いつものように電話して、いつものように話せばよいのだ。そして、会いたいことを伝えるのだ。
電話帳から三奈子の番号を呼び出し、ボタンに指をかける。
途端に、室内に大音量の音楽が響き渡った。
「よーっし、んじゃ歌うぞー!!」
「なんでこのタイミングなんですかーっ!?」
歌い始めた安奈達から逃げるように部屋を出て、少し静かな階段まで移動して改めて電話をかける。
しかし、何度かけても、電話はつながらなかった。電源が切られているのか、電波の届かない場所にいるのか。
その状態は、夜になってもずっと続いた。仕方なくメールを送信するが、メールの返信も来ない。
今までは、いつでも、好きな時につながることが出来たのに。
三奈子と出会ってから初めて、祐麒は重苦しく、眠れない夜を過ごした。