しまった。不覚だった。まさか、あんなところを見られるとは。
「いや~、蓉子がまさか、あんなねえ」
聖が隣でにやにやと笑っている。人の肩に馴れ馴れしく手を回しているが、それを振り払う気にもなれない。
「蓉子も可愛いところあるじゃない。いいもの、見せてもらっちゃった」
腕を組んで物珍しそうに見つめているのは江利子。
でも、何も言い返せない。きっと今、顔は真っ赤になっていることだろう。いや、顔だけではない。おそらく全身が茹だったように朱に染まっているのではないか。
「さてと、それじゃどこかでゆっくりと、洗いざらい喋ってもらいましょうか」
親友二人に挟まれるようにして連れてゆかれる。
そして私は、何度となく思い返してきた、あの始まりの日から今日に至るまでの日々を、頭の中で再生するのであった。
「水野さん、悪いんだけど、民法のノート貸してくれない?」
学友にそう声をかけられたのは、夏らしく暑くなってきた七月の初め。前期試験を控えての頃だった。
私、水野蓉子は某大学の法学部に通う一年生。大学に入って初めての試験を前に、そんなことを頼まれた。振り向くと、同じクラスだけど、あまり親しくない学友の姿があった。
「民法? どうして?」
「どうしてって……それはもうすぐ試験だから」
「でも、民法は必修だったと思うけれど」
「そう、だけれど……」
相手が戸惑っているのがわかった。
だけど、正直、信じられない気持ちだった。勿論、大学生にはそういう人たちが多い、って聞いていたけれど。
みんな、やりたいこと、学びたいことがあるから、自分で学校と学部を決めて入ってきたのではないのか。それなのに、一年の最初のテストで、いきなりそんな状態になっているなんて。
リリアンに通っている頃は、そんなことなかった。そりゃあ、体調を崩して欠席したとか、そういうときはノートを貸したりしたこともあったけれど、それとこれとは話が別。
大学に遊ぶために入るのも、大学に入ってから遊ぶのもその人の自由だとは思う。でも、それならその責任は自分で取るべき。
「悪いけれど、他の人をあたってくれるかしら」
「……わかったわよ」
彼女は、あからさまに不機嫌な顔をして去って行った。途中、何か文句を言っていたような気がする。きっと、「なんであんなにカタイのかしら」とか言っているのだろう。
しようがない、こういう性格なのだから。
「水野さん、すごいわね。私、嫌だと思っても、ああいうの断りにくくって」
隣にいた氷野さんが、目を丸くして私のことを見ていた。氷野(ひの)せりかさん。冗談のようだけど、最初『水野』と『氷野』で、お互いがお互いに間違った席に座ったことがきっかけで、仲良くなった。
氷野さんは、茶色いソバージュの髪の毛に、いつもちょっとばかり露出の高めの格好をしている、派手な感じの女性。性格は結構、豪快。でも派手な外見だけど、授業はいつも真面目に受けていて、不思議と気もあった。
「そういえば水野さん、河瀬君に告白されたって本当?」
「え? ああ、うん」
「で、また断ったわけだ」
「うん」
「はあ、水野さんて、理想が高いの? 彼氏がいるわけでもないんでしょう。入学してから、これで何人目?」
「数えてはいないけれど……」
多分、六人目だ。
別に理想が高いとか、そういうことはないと思う。今まで告白してきた男の子達が、どうにも合いそうではなかったというのもあるし、特に男性と付き合いたいという思いも無かったから。
そんなこんなで、どうも私は一部で、『氷の女王』とか呼ばれていて、誰が最初に落とすか、なんて賭けの対象にされているとかいないとか。そんな状況で告白されたら、例え真剣に言われているのであっても、つい、躊躇をしてしまうのも事実だ。
「勉学一筋、って感じだね」
「そんなつもりはないのだけれど……」
男性と付き合う、という自分を想像できないことも確かだ。小学生のときは共学だったけれど、そんなの本当に子供のときで、恋の『こ』の字も知らなくて。中学、高校はリリアンというお嬢様学校に通っていて。
「じゃあ、夏休みはどうするつもりなの?」
「アルバイトをしたいと思っているの。高校時代は禁止されていたし」
「ふーん。水野さんなら、家庭教師とか、そういうの良さそうだよね。教えるの上手だし、時給もいいしね」
「ううん。出来れば、接客業とか経験してみたいの。お金を稼ぐのが目的というより、そういった経験をしたい、というのが主な目的だから」
「うわっ、なんか理由もすごい」
「そう? でも、どういうところが良いのかよく分からなくて」
「あ、それじゃあさ、私と一緒のとこで働かない? バイト、募集しているよ。接客業だし、ぴったりじゃない」
「ええと、氷野さんが働いているところって」
「フツーのレストランよ。24時間営業のファミレスほど安っぽくないから、そんなに態度の悪いお客さんも来ないし、制服も可愛いよ。あ、いい、絶対いい。水野さんが着たら絶対、可愛いよ! うわ、見たい見たい。ね、いいでしょ、そうしようよ」
あらら、氷野さんてこんな人だったかしら。瞳をらんらんと輝かせて、私の全身を舐めるように見ている。
結局この後、押し切られるようにして氷野さんと同じお店で働くことになってしまった。ちなみに、面接はあっさりパスした。
「うわーっ、可愛い、可愛いわ、水野さんっ!!」
目の前で、氷野さんが手を叩かんばかりに喜んでいる。
一方の私はといえば、この姿で人前に出るのか、と思うと少し躊躇ってしまう。確かに、制服は可愛いけれど。
ジャンパースカートの上半身は黒を基調とし、チロリアンテープをはさんで、赤くてギャザーたっぷり膝上丈のフレアースカート。ジャンパースカートの上からはサロンエプロンをつけている。白いブラウスの胸元には、やはり黒のシンプルなリボン。
足元は黒いハイソックスに、黒のローファー。
頭には三角巾。これは幾つかの色から自由に選べるが、とりあえず私はスカートと合わせて赤にした。それにやっぱり、赤という色には、どうしても特別な想いがあるから。
ちなみに、氷野さんも当然、同じ制服を着ているわけだけれど、どこか水商売の人に見えてしまうのは、心のうちにしまっておこう。
前期試験も終わって夏休みに入り、私の初アルバイトがこうして始まろうとしていた。
「じゃあ、水野さんを指導してくれる先輩を紹介するね」
「え? 氷野さんではないの?」
「あはは、ごめん、私まだそれほど経験ないから。何せ一ヶ月ほど前に始めたばかりで」
なんだ、それでは私に仕事を紹介したときは、本当に、始めて間もない頃だったのか。
とにかく、氷野さんに連れられて行く。しかし、入ったばかりにしては、やけに偉そうだ。普通、こういうことは店長とか、チーフとかよく分からないけれど、それなりに上の立場の人がすることのように思う。
「すいませーん。この人が、今日から入ることになった新人の子です」
余計なことを考えているうちに、指導してくれる先輩とやらのいるところまでやってきたらしい。私は、慌てて頭を下げた。
「水野蓉子です。よろしくお願い致します」
そして顔を上げると。
驚いたことに、目の前にはどう見たって私より年下にしか見えない、可愛らしい男の子の姿があった。
その男の子は、少しはにかむようにして軽く頭を下げて。
「あ、ど、どうも。福沢祐麒です。こちらこそよろしくお願い致します」
これが、最初の邂逅だった。
初日の仕事は、とりあえず無難に終わった。初めてのことだったから、もちろん些細なミスなどはあったが、大きな問題は発生していない。
お客様の注文したメニューを覚えたりするのは、それほど問題は無いのだが、相手は人間、今までに自分が出会ったことが無いような様々な人たち、そういう人たちを相手に接客することで、精神的には結構、疲労していた。
時間は午後三時。早番で朝からいたので、上がる時間が早い。
「お疲れ様です、水野さん」
「あ、お疲れ様です」
店の奥で、声をかけてくれたのは、私の指導係である福沢祐麒さん。大体、女性の新人には女性の先輩がつくらしいのだけれど、人繰りの関係などで、たまたま私の指導係になってしまったとのこと。そして、先輩といいつつも私より年下の高校二年生。この店には、今年の春休みにバイトで入ったらしい。
「あの……水野さんて、その」
「はい?」
その福沢さんが、私に対して何か、言いにくそうに口ごもっている。なんだろう、今日、何か失敗をしただろうか。もし、失敗をしていても、私のほうが年上だから、ひょっとしたら言いにくいのかもしれない。
「あの、私の方が年上かもしれませんけど、仕事上は新人ですから。何か、まずいと思うところがあったら、何でも言ってください」
「ああ、いえっ。そういうことではなくて。水野さんて、ええと、紅薔薇さま……ですよね?」
「えっ、なんで、そんなことを」
びっくりした。まさか、こんなところでそんな名前が出てくるとは、予想だにしていなかったから。
「俺、花寺学院で生徒会やっていて。水野さん去年、花寺の学園祭のときにゲストとして来ていただいていたじゃないですか」
「ああ……」
そうか、花寺の学生だったのか。
あれ、でもちょっと待って。生徒会をやっているということは、私が一方的に見られていたわけではなく、私も知っているはず。まずい。向こうが覚えていて、こちらが覚えていないなんて言ったら、かなり失礼だ。こう見えても、人を覚えることは得意なのに、ちょっと焦る。
すると、そんな私の困った様子を悟ったのか。
「いや、生徒会っていっても、去年のその頃はいなかったから。覚えてなくて当然だと思いますよ」
フォローされてしまった。
「でも、"紅薔薇さま" なんて、なんか懐かしい感じね」
「で、実は、俺の姉が今、"紅薔薇の蕾" なんですよ」
「…………」
今の紅薔薇さまといえば、当然、祥子。ということは、紅薔薇の蕾は、いうまでもなく祐巳ちゃん。と、いうことは。
「あっ、福沢って、じゃあ?」
「はい、福沢祐巳は実の姉です」
「うわーっ、こんな偶然なんて、あるのね」
リリアンは卒業したけれど、貴重な時間を過ごした忘れられない大切な場所。まだ離れてから半年も経っていないけれど、物凄く懐かしい気がする。思わぬ偶然に、私は我知らず、うきうきしていた。だからだろう、無意識のうちに、こんなことを言っていた。
「ねえ、良かったら、この後ちょっとお話でもしていきませんか?祐巳ちゃんのこととか、色々聞いてみたいわ」
翌日。
昨日に引き続き、バイトである。更衣室に入り制服に着替えていると、氷野さんが入ってきた。そして彼女は、私の姿を認めるや否や、目を輝かせて私に近づいてきた。
「みーずーのーさん。あなた、意外と、やるときはやるじゃない!」
「はあっ? なんのこと?」
「とぼけないでよ。祐麒くんのことよ。昨日あなた達、一緒に帰ったでしょう」
「えっ……」
「私、水野さんと一緒に帰ろうと待っていたのに、水野さんたら、祐麒くんと仲良さそうにおしゃべりしながら行っちゃって。寂しかったなー」
「あれは……」
「水野さん、年下好み? 祐麒くんかわいいからねー、わかるわかる。実はバイトの子達の中でも、祐麒くんは結構、人気高いんだよ。でも、今まで誰も落とせなかったのに、初日に落とすとは、さすが水野さんだー」
「ちょ、ちょっと待って。何か、誤解をしているようだけど」
私は慌てて、簡単に事情を説明した。
「……なんだ、そういうことだったんだ。つまんないの」
「ご期待に添えなくてごめんなさいね」
三角巾をかぶりながら、微笑む。しかし氷野さんは、特に残念そうな様子も見せずに、にやにやとしている。
「まあ、これから先を楽しみにしているから」
「そんな面白いことなんて、起きないわよ」
ドラマとは違うのだ。さっさと着替え終えて、更衣室を出る。氷野さんも、急いで私の後を追ってくる。ホールへと向かうところで、祐麒さんと出くわした。彼も、今日は昼番だったはずだ。「おはようございます」と、決まりきった挨拶をして、今日の仕事へと向かおうとすると。
「ねえねえ祐麒くん。水野さんの制服姿、どう思う?」
突然、私の肩を掴むようにして、氷野さんがそんなことを祐麒さんに聞きだした。
「ちょっと、氷野さん」
「いいじゃない。ねえ、どう?私、絶対似合うと思って誘ったんだけど、やっぱり正解だったと思うのよ。ね、ね、感想をどうぞ」
目の前の祐麒さんは、ちょっと困ったような顔をしている。そして、やっとという感じで口を開いた。
「に、似合っていると思いますよ、可愛くて」
あ。
「ほら、祐麒くんもそう言っているじゃない」
「もう、こんな風に聞かれたら、祐麒さんだってそう答えるしかないじゃない」
「そう?あら、あらら、水野さん、ちょっと照れてる?微妙に赤くなってる?」
「なってないわよ。ほら、早く仕事しないと怒られるわよ」
「はーい。それじゃ、私、あっち行くね」
手をひらひらと振りながら、氷野さんは自分の持ち場へと去っていった。私の友人には、どうしてこう、私にため息をつかせるような人が多いのだろう。
「ごめんなさいね、騒がしくて。さ、今日も仕事、よろしくお願いします」
「はい。あ、あの、さっきはすみません。俺のほうが年下なのに」
「ん?」
「いや、だから制服のこととか」
あ、可愛い、と言った事か。そんな改めて持ち出さないで欲しい。せっかく、さらりと流したのに思い出してしまったではないか。
というか私ったら、何を変に意識しているのか。
そんな、思っていることを顔に出さないようにして、軽く笑う。
「別に、そんなこと気にすることないのに。私、褒められたんだし」
かわいい年下の男の子に、可愛いと言われる。
そんな些細なことに、なぜか私は、少しどきどきしていた。