高校に入学したときは、もちろん、祐麒だってそれなりに夢や期待を抱いていたものである。
どんな新たな友人が出来るか、部活動には入るか、学祭などのイベントは中学よりもずっと豪華で盛り上がるようだし、男子校とはいえもしかしたら可愛い彼女だって出来るかもしれないという思いも持っていた。
しかし現実は、祐麒の想像の遥か斜め上をいっていて。
特異な環境でバイトして、江利子さんの擬似的恋人としてふるまって過ごした、目の回るような日々だった。
入学前には考えることなど及びもしないような出来事ばかりが、息をつかせる間もなく襲い掛かってきた。
お店で、クリスマスやバレンタインの特別イベントで起きた大騒ぎ。
江利子さんの妊娠疑惑を受けてのイエローローズ事件。
麻友さんとのラブホテル事件に、二股疑惑。
肝試しでのオーメン騒動、二人きりでの海への旅行と無人島遭難事件。
祐巳を含む山百合会メンバーの来店事件。
鳥居家へのご招待から三人の兄貴との対決、そしてなぜか二人の仲を渋々ながらも認められる結果になった。
本当に様々なことが起きたが、結局のところ、彼女が何を考え、何を求めているのかは分からなかった。同じ職場で働き、秘密を共有した。時にはデートらしき行為もしたし、喧嘩もした。彼女について色々なことを知ったと思っていたけれど、理解するには至らなかったのか。
大人びた仕種も、時に見せる無邪気な表情も、怒った顔も、笑った顔も、色々な彼女を見たけれども、本当の彼女と言うものは見つけられなくて。
ただ、一度だけ見た、灯りの落とされたフロア内で月明かりを浴びた彼女の、物憂げな表情と雰囲気というものがずっと祐麒の心の中に残り、忘れられなかった。
そして江利子さんは、祐麒の中にあった色々なものを打ち壊していった。
実の姉を持っていたからある程度は分かっていたが、それでも、女性に対する淡くも甘い幻想はものの見事に打ち砕かれた。
それは江利子さんによってというよりは、むしろバイト先の仲間達によってなのだが、裏には必ず江利子さんがいたような気がする。
本当に恋人同士になったわけでもない。当然、肉体関係を持つどころか、キスだってしていない……いや、一度だけあったかもしれないが、無人島遭難事件の騒ぎの最中で発生したアレを、キスしたとカウントしてよいものか悩むところ。
そんな状態であったけれども、それでも確かに、二人は恋人同士として周囲に認識されていて、それをくすぐったく感じながらも、凄く嫌だとまでは思っていなかったのも本当のこと。
むしろ、時がたつにつれて、楽しいとさえ感じていた。振り回され続けていても、刺激的で、日々が新鮮だった。
江利子さんの様々な表情を見るのが、楽しみになっていた。
だけど、確実なつながりのなかった二人、距離が開くのも不思議ではなく、祐麒が高校三年生の途中からぴたっと顔を合わせることが無くなった。別れたとか喧嘩したとかそういうことではなく、タイミングが合わなかったのだと思う。
確か、最後に会ったのは花寺の学園祭を見に来てくれた時だったと思う。それ以来、電話はしても顔を合わせることなく、祐麒は受験勉強が忙しく、江利子さんも大学で課題などに追われ、やがて電話も途絶えがちになった。
初めはやはり、寂しいと感じた。
しかし、受験勉強や騒がしい仲間達に囲まれているうちに、徐々に記憶から薄くなっていた。
大学に入り、新しい生活が始まったことによって、それは更に加速を増すかと思っていたのだが、逆に、入学するなり強烈に思い出させられた。
「……おいおい福沢、どういうことか、ちゃんと説明してもらおうか」
笹山が腕を組み、険しい顔をしてこちらを睨んでいる。
女の子達も、疑惑の視線を向けてきている。ことに、蔦子さんの、眼鏡のレンズを通して、見る物を貫くような視線が、痛い。
驚愕が過ぎ去った後には、混乱と疑惑が渦巻いて残り、波涛となって押し寄せてきた。
どう言い訳しようとも納得してもらえるような状況にも見えず、かといって疑いをそのまま許容するわけにもいかず、祐麒は進退窮まっていた。
しかし、とにもかくにも裸に近い状態の江利子さんをそのままにしておくわけにもいかず、とりあえず祐麒たちは、一度部屋の外に出た。
春の心地よい日差しが降り注ぎ、爽やかな風を身に浴びながら後ろ手で扉を閉めると、すぐに学友達の詰問タイムが始まったというわけだ。
だが、尋問に対する受け答えが用意されているわけもなく、祐麒としてみたら説得力のない言葉を連ねることしかできなかった。
「だ、だから、高校時代の知り合いってだけで、それ以上ではないから」
必死に言い繕ったところで、誰が信じてくれるだろうか。
「ただの知り合いが、部屋に泊まるか? し、しかもあんな格好で!」
「男らしくないわよ、そんな言い方」
憧れのミス・キャンパスが見せた痴態にショックを受けた笹山は、見たことがないような形相で詰め寄ってくる。
女の子達も、どういうことなのかと聞いてくる。
こちらの方はどちらかというと、言い訳をする祐麒の態度に怒っているようだ。こんな状況で、女の子のせいにしてまだ言い逃れをするのかと。
「女の子が一人暮らしの男の子の部屋に泊まるってことは、そういう想いがあるってことよ。そうじゃなきゃ、泊まるなんて出来ないわよ」
ただ単に、安全だと思われているだけなのだが、いくら言ったところで信じてくれそうにもない。
「おい、福沢」
「ちょっと、福沢くん」
口々に、問い詰めてくる学友達。しどろもどろに弁明するしかない祐麒であったが、このままでは埒があかないと判断したのか、蔦子さんがついに口を開いた。
「……で、実際のところ江利子さまとはどのような関係なのかしら?」
穏やかな口調、にっこりと微笑んだ顔、にもかかわらず、人一倍の威圧感があった。友人達は後ずさり、一歩前に出る形となった蔦子さんと二人、向かい合う。有無をいわせぬ迫力に、息を呑む。
――蔦子さんとは、春休みの間に顔をあわせていた。同じ大学に入るということを知った祐巳が、何を考えていたのか分からないが、二人を引き合わせてくれたのだ。
高校時代は、名前と顔は知っている、という程度だった二人だったが、せっかく同じ大学に入るのだから仲良くしたいと思っていた。だからこの前、思い切って一緒に遊びに行かないかと誘ったわけだが、勘繰られても仕方ないような江利子さんとの関係を知られてしまっては、怒られてしまうのもさもありなん、というところであろうか。
追い詰められ、言うべき言葉も出てこず、もはやこれまでか、と思ったそのとき。不意に、部屋の扉が開かれた。
「あ、き、着替え終わりました?」
藁にもすがる思いで、開いた扉の向こう側に声をかけ、首を曲げて見てみたところで祐麒は目を見開いた。
祐麒だけではない。他の学友達も、もちろん蔦子さんも、声もなくただ見つめていた。
扉の向こうに姿を現した彼女は。
「……お待たせいたしました」
そう言って、三つ指をついて深々と頭を下げているのは、メイドさん。
いや、メイドの格好をした江利子さんだった。見間違えるはずも無い、例の店の制服だったが、なぜ今、ここで目にすることになったのか。
「おい、ど、どういうことだ……?」
事態がのみこめず、声がひっくり返っている笹山。
もちろん、祐麒だって分かるはずがない。
「え、江利子さん。そ、その格好は……」
ようやくのことでそれだけ言うと、江利子さんはゆっくりと顔を上げて。
「……だって、家にいるときはこの格好でいろって言われたじゃないですか……ご・主・人・様」
お店の制服など、いつの間に部屋に持ち込んだのだろうか。
初めて会ったときから二年半の月日が流れたとはいえ、江利子さんの可愛らしさは全く損なわれていない。メイド姿も問題なく似合っている。むしろ大人らしさが加味されて、ただ可愛いだけでなく、落ち着いた清楚な雰囲気も併せ持つように感じられた。
「お前、そういう趣味だったのか」
「やだ、信じられないーー」
「ち、違うっ! 俺はそんなこと」
「そんな、ひどい。昨夜はあんなにも沢山ご奉仕したのに……私の指も、お口も、胸も、全て貴方のために……」
わざとらしく、泣き崩れる江利子さん。
どう考えたって、悪ふざけして演技しているとしか考えられないのに、気が動転しているのか、それとも誰も彼もが彼女の言葉を信じてしまったのか、場は混乱している。祐麒の部屋に、あられもない姿で泊まっていたという事実が心の中に食い込み、皆を微妙に狂わせているのか。
「私もう、貴方なしではいられない体になってしまいました。こんな淫らな体にした責任、取って下さるって仰られたじゃないですか」
瞳を潤ませて、迫ってくる。しかしその目は祐麒ではなく、その先にいる人物のことをとらえていた。
「――江利子さま。いい加減、ふざけるのはおやめになってください」
蔦子さんは、江利子さんから向けられた視線を真っ向から受け止め、腕を組んだままさらに挑戦的な目で見つめ返している。
しばし、緊迫した空気のなかでお互いに見合う両者と、挟まれる格好で動くことも出来ない祐麒。
やがて、江利子さんの方が息を吐き出し、肩をすくめた。
「……あら、つまらない。ノってくれないの?」
言いながら立ち上がると、腕をからませてくる江利子さん。ふくよかな胸が押し付けられ、思わず赤面しそうになる。
どこからどう見ても、今の状況を単純に楽しんでいるだけにしか見えない。蔦子さんを挑発して、どのような反応を見せるのか、そしてまた祐麒がどのような対応をするのか。当事者である祐麒にしてみたら、たまったものではない。
一方、蔦子さんは、冷静な表情を保ちながらも、口の端をひくひくと小刻みに動かしているのが見え、かなり苛立っているというか、神経を逆撫でされているのが傍目にもよくわかった。
「祐麒くんをからかうのが、そんなに楽しいですか?」
「楽しいわよ、そりゃ。でも勘違いしないでね、蔦子ちゃん。私は別に、冗談半分でからかっているわけじゃないのよ。だって私達、高校時代から付き合っているんだもの」
「ええっ?!」
驚きの声は、外野から。
祐麒は頭を抱えたくなる。
「そんなの、信じられません」
「あら、本当よ。そうでもないとこんな服、いきなり出てくるわけがないでしょう。ねえ、祐麒くん?」
「え、でも」
もう、半年以上は会っていなかった。本当に付き合っていたわけではないのだが、それでも半年という期間は、関係が消滅したと考えてもおかしくないだろう。
そんな祐麒の考えを読み取ったのか、江利子さんは口の端を軽く上げて。
「別に、正式に別れたわけじゃないじゃない?」
「そ、そりゃまあ、確かに」
江利子さんの言葉を受けて、その一言を呟いて、はっとする。
即ちそれは、祐麒が江利子さんと付き合っている、ということを自ら認めたのと同じことであったから。
祐麒の言葉を聞き、江利子さんはさらに畳み掛けてくる。
「祐麒くんが受験に専念できるよう、一時的に距離を置いたんじゃない。私も辛かったけれど、祐麒くんも半年間、我慢していたんでしょう? だから、半年間の空白を埋めるように、昨夜だってあんなに激しく私のことを求めてくれたのでしょう?」
「あの、えと」
「と、いうわけなのよ。ごめんなさいね、蔦子ちゃん。それに祐麒くんはこのとおり、コスチュームプレイが好きでね、メイドだけでなくバニーとかナースとかセーラー服とか、恥しい格好が出来ないと駄目なのよ?」
また、とんでもない出鱈目を平然と言ってのける江利子さん。男共は何を想像したのか鼻をおさえ、女の子も顔を赤くしてこちらを見つめている。
勘違いされそうで、慌てる。
本当に、バニーやナースの格好をしたことがあるわけではないのだ。セーラー服姿を見せてくれたことは確かにあって、あまつさえその格好でデートをしたこともあったけれど、口には出さない。
「ちょっと、そんな本気にしな」
「ね、祐麒君はどのコスチュームが一番良かった?」
「え? 巫女装束は可愛かったな……って、そうじゃなくて」
「あ、あのお正月のときのね。あはっ、嬉しい。また今度、してあげるね……次はもっと大胆な感じで」
失言した言葉を打ち消す間もなく、江利子さんが喜びの声をあげて、更に力強く抱きついてくる。
お正月に江利子さんに呼ばれて神社に行ってみると、そこで巫女さんのバイトをしている江利子さんがいたというだけなのだが、あまりの可愛らしさにしばらく呆然としてしまったのは、今も脳裏に鮮明に焼きついている。
そして、蔦子さんはといえば。
「わ、私だってそんな格好くらいできますし、祐麒くんを満足させてあげられますっ!」
挑発されて我を忘れたのか、江利子さん以上の爆弾発言をぶちかました。
そして言った直後、自らが口にした言葉を理解したのか、首まで真っ赤になる。
「つ、蔦子さん……」
「あ、ちがっ、今のは、そのっ」
手をばたばたさせて否定しようとした蔦子さんだったけれど。
「無理しなくていいのよ、蔦子ちゃん」
という、江利子さんの言葉に。
頬は紅潮させたままながらも、口を一文字に結び、目に強い意志を宿し、江利子さんの顔を睨みつけるようにして。
「無理なんか、していません。本当ですから。そんな、メイドだとかスチュワーデスとか秘書とかくらい、なんでもないですし」
明らかに強がっている風にしか見えない蔦子さんなのだけれど、思わず蔦子さんのメイド姿や秘書の格好を思い浮かべてしまう祐麒。
普段はクールな蔦子さんの、思いもかけない醜態や発言に驚き、固まって動くことの出来ない友人たち。
そして、相変わらず祐麒の腕に抱きついて寄り添っている江利子さんはといえば。
「くくっ……やっぱり祐麒くんの側にいると、退屈しないわね」
心底楽しそうな微笑を浮かべて、祐麒にだけ聞こえるようにして囁いた。
「ちょっと江利子さま、いつまで祐麒くんにしがみついているつもりなんですか。祐麒くんも、そんな顔して」
「あら、ひょっとして羨ましいのかしら、蔦子ちゃん?」
「そ、そんなわけないですっ」
言いながら祐麒の腕を引っつかみ、江利子さんから引き剥がそうとする。逆に江利子さんは、更に強く腕に絡み付いてきて、蔦子さんを挑発する。
友人達は、いきなり目の前で繰り広げられた修羅場(?)に、もはや何を言っていいのか、どう行動してよいのか分からず、ただ呆気にとられたように眺めている。
「ちょ、ちょっと、二人ともやめっ……」
悲鳴をあげると、ようやく二人とも腕を離した。
勢いでよろけ、江利子さんの方に倒れ掛かるのを、どうにかこらえる。ちょっと離れたところでは、蔦子さんが少し呼吸を乱しながら、対峙していた。
「やだ、蔦子ちゃん、目が怖い」
祐麒の背中に隠れるようにしている江利子さん。怖いと口ではいいながら、怖がる素振りなど全く見せず、面白がっているようにしか見えない。
「すみません、生まれつきです」
髪の毛を整えながら、蔦子さん。正直、怖い。
祐麒は予感した。
賑やかで、トラブル続きで、目の回るような大学生活になることを。
だけれども。
「ふふっ、今度こそ本気にさせてあげるから、ね」
振り向いてみれば、人差し指を唇の前で立てて見上げてくる、挑戦的な彼女の瞳に。
いつしか祐麒は魅せられているのであった。